北原永のブログです。
麻生公演

 久しぶりに大太坊が公演する。今年1回だけの本公演だ。場所は神奈川県麻生のホール。

 

大太坊は僕の大好きな3人娘が結婚を機に休会して、その後若い男が何人も入ったので、ボクのやる気は急激に落ちた。要するにやる気が減退したのだ。あと6日で本番を迎えるのに、いっこうにやる気が起きない。昨日は通し稽古だった。茜ちゃんが子供連れで食事の手伝いに来てくれた。朝倉さんも、裏方で手伝いに。僕のやる気に火がついた。

まあ、冷静に見れば、若手ががんばって、今までとは違うそれ以上の舞台の仕上がりが見えてきてはいるのだが。

面白いところがいっぱいある。

 

夕飯は、キノコ汁と、マツタケご飯。茜ちゃんたちが作ってくれた。

面白くなりそうな今回の舞台ではあります。

 

でも、あと数年で3人娘が復帰すればもっとすごいことになりそうなので、今からワクワクしています。

チケットはまだまだあります。見に来てね!!!!。

Posted by : hisashimaturi | - | 10:10 | comments(1) | -

9月23日、ボクの母が亡くなりました。

94歳。大正から昭和、平成を苦難と激動を生き抜いた母でした。喪主の仕事を終えホッと一息ついた今日です。語りたいことがいっぱいありますが、とりあえず喪主あいさつをアップします。

 

2018年9月26日 喪主あいさつ(次男北原永64才)静恵おばあさんの葬儀にて

 

本日は、お忙しい中,母静恵の葬儀においでくださいましてありがとうございます。
まずはじめに母の歩んできた道のりを簡単にお話させて下さい。

母は、大正13年、沢渡(伊那市西春近)に生まれました。その直後から母の苦難は始まります。生みの親は産後わずか半年で亡くなり、親戚にあずけられることとになります。母は人並み以上に気遣いが出来る人でした。それは、幼少期のこの環境の中で身についたものだろうと思います。それでも、育ての親は、強い愛情を持って育ててくれたのです。
尋常小学校卒業と同時に12歳で岡谷の製糸工場女工として6年間働きます。18歳で満州に渡り、満州鉄道事務員として2年間を過ごしました。母は、この時のことをよく話してくれました。楽しい思い出ばかりのまさに青春だったのでしょう。
しかし、時は戦争の只中です。急遽日本に帰らざるを得なくなり、好きな人とも別れを告げました。その後、満州にはロシア軍戦車部隊が侵攻し、その戦闘で、弟を失います。弟は享年20歳。数か月前に召集を受け、そのまま戦地に送られ、戦死したのは昭和20年8月14日、終戦前日でした。母は、「どんなことがあっても戦争だけはだめ」と、ことあるごとに私達子供に語っていました。

戦後、28歳で父、安一と結婚。貧乏の中4人の男の子を育ててくれました。4人ともわんぱくで、どれほど母に心配をかけたかわかりませんが、それぞれが自立した最近では、兄弟や孫ひ孫までそろって親族会を何度もやることが出来ました。少しは親孝行ができたかなと思っています。今ここにある遺影は、今年4月最後の親族会で焼津に行った時のもので、海を見ている母の表情を写したものです。

一緒に暮らしていて、人の悪口を言う母を一度も見たことがありません、芯が強く、そのうえ、やさしさにあふれ、見事な人生を生き抜いた母は、94年間動き続けた心臓が「トン」と止まってしまいました。母と同じ人生を生きることはできませんが、この母から学び、親族一同これからも精進していきたいと思います。
本日は本当にありがとうございました。

 

 


 

Posted by : hisashimaturi | - | 00:46 | comments(0) | -
ら抜き言葉

 「決められない」「決めれない」

 

 何年か前の話である。日本語を学んでいる北朝鮮人が、日本を批判する時。日本文化の乱れの一例で「ら」抜き言葉を指摘した。え?とはじめて気付いたのだが、「オレも ら、抜いてるジャン。」  たとえば「決められない」は「決めれない」だし、いちいち例を上げればきりがないほど、僕が普段しゃべる言葉には「ら」はない。

 

ボクだけかと思ったらまわりの人はみなそうだし、テレビでしゃべっているスポーツ選手とか、(ボクの大好きなイケエリカコちゃんもそうだったぞ)インタビューに答えている、いわゆる街の声という人達も、みんな僕と一緒「ら」がない。みんな乱れた日本語を使ってる。それで充分伝わるからみんな使っているのに。わざわざ手間ひまかけて、テレビ局は本人が言ってもいない「ら」をテロップに挿入する。これおかしくないかい?今度、万が一、ボクがインタビューとかでテレビに映ったときに、そんなことやったら、事実を捻じ曲げたとかで告訴してやろうかと思う。

 

そもそも正しい日本語とは何か、簡潔に自分の意思が伝わりさえすればいいわけだし、なお、できるだけ美しいほうがいいであろうが、・・・。

 

「標準語とは何か。」明治時代、鹿児島の人と、青森の人が話してもまったく通じなかったり、あまりにも日本中言葉が違うので不便だということで、標準語と言うのが作られた。さて、どこの言葉を標準にしようかと考えたところ、そりゃ、「日本の中心である東京だべ」という事になり、東京でも品性のある「山の手」(公家が住んでいた)にしようということになってしまって、やけに丁寧でまどろっこしい言葉が日本の標準になってしまった。まあ、暇な人達だったろうから、「マロは決められないでありまスル」とか言っていたのだあろう。江戸っ子庶民なら、まどろっこしいことはきれえだから、「オラァ決めれんねえよ」で済んでいて、きっとそれが標準になていたら日本はもっと面白くなっていたかも。

 

 

Posted by : hisashimaturi | - | 03:32 | comments(0) | -
熱響

今年も「熱響太鼓まつり」の時期がやってきた。

地元伊那の太鼓チーム10団体共同で開催する太鼓イベント。

舞台規模は、松本城太鼓まつりと同じくらいだが、違うのは予算が10分の一だということ。すべてまつり工房も含めみんなの労力で創るイベントで、他には例がない。屋台も出て花火も上がる。

 

この時期は準備に追われ、よくこんなこと毎年やってきたなあと思うのだが、終わるとまた来年もやろうかと思う。大勢が集まるといろんな意見が出る。それは、その立場になれば言いたいことはわかるのだが、もうやめようかと思うのはそんな時だ。いいものをつくりたいと思って言った事やったことでも、不満が出れば押し通すわけにも行かない。しかしこの仕事を長くやっているとお客さんがどんな反応になるかは大体予想が付く。ここを理解してもらうのがしんどい。

 

熱響が終わると次は「ドド御祭」今キャスト決めの真っ最中だ。

過去5回行ったドド御祭はほとんどが赤字だった。持ち出しこそなかったが、まつり工房の収益無し、大変な時はすべてボランティアとなった時が多い。今年もそうなりそうだ。参加する人にこれ以上の負担をかけるのはいやなので、今回で終わりにしようかと思いかけている。

 

儲からないけど損はしない。出来れば仕事になったと言う線で完結したいと思うのは理想。なかなか難しい。ちょっと愚痴になってしまった。今ちょっとだけ落ちている。

 

さて、熱響は、9月8日(土)午後5時から、酒飲みながら花火と一緒に太鼓を楽しみにお出かけください。

 

Posted by : hisashimaturi | - | 19:26 | comments(0) | -
猛暑

今年の夏は、ここまつり工房も暑かった。暑いと言っても最高で32度くらい。でも、ボクは、30度をこえると暑い暑いと言ってみんなに笑われている。その30度以上がひと月以上続いただろうか。

 

それでもまつり工房は、締め切って稽古する稽古場以外は、ホールも事務所もクーラーは入っていない。たまに県外に行くと部屋はクーラーで冷え、外は蒸し蒸し暑くてまいってしまう。こんなところによく住んでいるもんだ。

 

まつり工房では、夜は適度に冷え寝心地がいいし、今年は昼間でも涼むことが出来る「川辺ゾーン」を作った。まだ完成ではないが川辺までのスロープを作って秋までには石階段を積む。水利権とかあるので、水は使えないが、この川べりはまつり工房の所有地だ。川に近づくだけで2〜3度涼しく、足を入れてしばらく遊ぶと出てからも一日中涼しさが続く。まつり工房夏の名所になりそうだ。

この夏のドドン祭練習や、合宿などで、ずいぶんみんなに楽しんでもらった。

毎年少しづつ熱くなる傾向で、もう日本は亜熱帯気候になっていると思ったほうがいいと思う。台風の様子や、北海道に梅雨があったり昔のタイやベトナムくらいの気候になっている。魚屋植物の趣向や風土さえすべてのものが変化してくるだろう。これからは、気候変動を嘆くのでなく、それに合わせて楽しむくらいのつもりでいたほうがよさそうだ。

 

木陰で笛練習

ミコモコも暑そう

 

 

Posted by : hisashimaturi | - | 12:35 | comments(0) | -
TOP